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それがその人にとって良き事であれ、また悪しき事であれ、長年培われた(もしくはいつの間にか培われてしまった)その「クセ」と呼ばれるものは、なかなか修正の利かない、ちょいと厄介なモノだったりします。
「え、スティックの音ですか?」 私がドラムスクールに通いはじめて、最初に先生に言われたのがこの言葉です。レッスン中、私は慣れない譜面を読みながら叩く事に夢中で、まったく気が付いていませんでしたが、練習台を叩く音の違い・・・。確かに良く聴いてみると(スティックの違いを考慮したとしても)先生の叩く音と私の叩く音では、全然「音質」や「音符の長さ感」が異なります。先生が「トーン」と鳴っていたら私は「トッ」ってな感じ。私の練習台を叩くサウンドは「硬く詰まったような」音。 そんな事これっぽっちも意識してなかった・・・ |
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結局のところこれは単なる私の認識不足だったのですが、自分にとっては「当たり前だ」と意識もせずに思っていた事が、あっさり覆されたまさにその瞬間でした。たとえるなら毎日ヒゲを剃ってるのに「君、ヒゲボーボーだねぇ」って言われたり、スキンヘッドにしたのに「そのパーマ似合うよ」って言われたようなモノです(笑)。 力を入れているつもりが「まったく無いのに」外から見たらどうにも力が入っていた。 いや〜ビックリしましたよ。そして同時にかなり不安にもなりました。小さな音が出せないし、力を抜こうにもどうも上手く抜けなかったので。 どの程度の力で握れば良いのだろう・・・ 物事は何でもそうだと思いますが「どの程度やるか」というさじ加減がとても重要です。それは誰が教えてくれるモノでもなくて、簡単に言ってしまえばその人の「経験」なのですが、ドラムもその他の事柄でもそういった(さじ加減の)判断が付けられるようになる事が、大人になる事(笑)というか、最終的にはその人の「個性」を形成してゆくものなのだと思います。もちろん「Aさんが「強い」と感じるのに、Bさんはそれを「弱い」と意識する事がある」ように、個人個人の意識とレベルの差異は存在します(ドラムってそんなものばかりです)ぶっちゃけこの場合ではいい音楽が演奏できれば、握りが強かろうが弱かろうが「それでアリ」です。しかしながら指摘されたことによって私は新たな意識を得ることができました。意固地になる理由は存在しませんでした。何故なら私は新しいものを探しに来ていたからです。私は正直嬉しかった。自分にとって新しいものを手にした瞬間でした。小さな事だったかもしれませんが、私にとってこのスティック事件(笑)から見えてきた事は色々とあります。それはまた別の機会に少しづつお話したいと思います。 「力を入れ過ぎた大きな音は汚いサウンドになる事がある」 「大きな音を出すためには力は必ずしも必要とされない」 「小さな音も同時にコントロールできなくては音楽的なプレイは難しい」 ドラムスクールの初日にこれらを感じた事はその後の自分にとてもいい影響を与えていると思います。その後も次々と明らかになるクセ(笑)や、度重なる認識不足で今でも受講の度に凹んでしまいますが、ドラムでも仕事でもまずは「よく見極める」事が大切なのだと痛感する毎日です。そして認識不足は無知と並び称されるほどの罪だと心得ました(笑)。 「ドラマーは体力だ!」きっとこれは【ある意味においては】間違いではありません。パワフルなプレイはカッコいいです。それにそもそも体がしっかりと動かなければ、ドラムは演奏出来ませんからね。しかし力が「入り過ぎている」事が良いわけはなく、また「大きな音が出せる」事と「良い演奏ができる」事は必ずしもイコールではありません。音楽的にコントロール出来ないほどの「無意味な大音量」は、やはり文字通り意味を持たないと感じます。翻ってよくよく考えると実際に私がプレイしたいと思う音楽の中にもそんなものは存在していません。私にとっては目からウロコの経験でしたが、もしかしたら皆さんにはごく当たり前の事だったかもしれませんね。 |
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